陽光と言うには少しばかり強すぎる光のなかを、ナマエは歩いていた。
彼女のほっそりとした腕に抱かれた息子サブは三歳になるが、二十歳で身ごもったナマエは、母親としてかなり若い。
二人一緒にいて、年の離れた姉弟のように思われることも決して珍しいことではなかった。先ほども、バスの停留所で一緒に並んでいたマグルから「おねえちゃんに抱っこされて、良いねえ」と笑いかけられたばかりだ。そういう時に限って、サブはニコニコと機嫌よく黙っている。誰に似たのか、息子は人懐こい性格だ。一度きり居合わせたマグルに自分たちの関係を訂正するのも何かと思って、ナマエもニコニコと相槌を打った。しかし母親らしくない自分の童顔を、ナマエは気に入っていなかった。
いや実際のところ、自分が年より若く見られるのは、その容姿よりも立ち居振る舞いによるところが大きいのだろう。同い年の親友もまた一児の母ではあるが、会う度に逞しくなっている風である。勿論学生時代と比べて身嗜みを手抜きしているとか、そういうことではない。
ナマエが、母親としてどこか頼りないと思われてしまうのは、きっとどこか“浮ついたところ”があるからだ。
子供が長距離を歩けるはずがないと予想出来ずに、電車とバスで友人宅まで行こうとする――子供を抱いているのに、バスが停止する前に立ち上がってしまう――やんちゃ盛りの子供を連れているのに、動きにくいワンピースを着てしまう、とか。
ナマエは、視界の隅ではためくワンピースに意識を向けた。このワンピースは学生時代によく着ていたものだ。
初めての恋人とのデートのために、友達とやいやい言いながら選んだお気に入りのものだった。ともすれば下品なほど大胆に開かれた胸元が、襟ぐりにあしらわれたレースで誤魔化されている。友達の口車に乗せられて、レジに持っていく頃にはもう丸っきり自分でも良い買い物をしたと思っていたのだが、落ち着いてみるとプリントされた柄は安っぽいし、レースの布目も荒い。学生時代ならいざ知らず、成人した魔女が着て歩けるものではない。さりとて捨てることも出来ず、卒業と共にトランクのこやしになっていた。
それを陽の目に当ててやろうと考えたのは、端的に言えば痩せたからである。出産以来落ちなかった体重が、サブのやんちゃのおかげでついに理想体重にまで落ちた。夫は妻の減量をよく思ってくれないものの、痩身は女の夢だ。女なら、誰だって少女期のウエストを望んでしまう。見事にくびれたウエストラインを確かめるために、女は未練がましく取っておいた娘時代の服を取り出す。
ホグワーツ生だった頃使っていたトランクを取り出したが最後、もうそこからは女の性というか「案外まだ似合うんじゃないかしら」とか「私、まだ二十三だものね」とか、言い訳と娘時代の思い出が雪崩のように押し寄せて……普段遣いの洋箪笥に入れてしまった。
こんなものどこへ着ていくんだと我に返る前に、旧友たちと会う約束が入ってしまったのが運の尽きだった。
ナマエはサブをあやしながら深いため息をつく。
三歳と言えば、丁度自分で自在に動き回れるようになり、手の掛かる時期だ。
新米主婦としては育児やら家事やらに手一杯で美容やお洒落にまで手が回らない。そうと分かっていながら久々の外出に若い頃着たワンピースを選んでしまう自分はやはり“浮ついている”とか“おねえちゃんに抱っこされて、良いねえ”と言われても仕方がない気がした。
自分のことを省みると、いつ・どこで見た風景かはよく分からないけれど、ふわふわと風に揺らぐ風船が脳裏に過ぎる。それが己を模したもののように思えた。いつまで経っても、落ち着きが無くて、頼りがいのない子供。こんな風だから、姑には「いつまで経っても少女のよう」だと嫌味を言われるし、実母からは「ねえ、ままごとじゃないのよ」と叱られてしまうのだ。
出掛けには「気の置けない友人達の集まりだから」と軽い気持ちでいたが、濃い樹影の落ちる砂利道を歩いていると後悔が募る。
そもそもこの憂鬱な思考の発端は浮ついた気持ちで履いてきたハイヒールと、それによる靴擦れが原因だった。
息子を抱きかかえ、バスケットをぶら下げながら、ヒールの高い靴で砂利の上を歩くのは大仕事だ。
どれも魔法で少し軽くしてあるとはいえ、身軽とは言い難い。ここ最近は家から出ることが少なかったから、脚力自体も退化していた。昔は六センチのヒールでも駆けていけたのに、今は舗装された道を歩くだけでも辛い。舗装されてないと、尚の事辛い。
色々な事を悔やんでも、今更どうしようもない。箒は家に置いてきてしまったし、こんな往来に暖炉があるわけもなく、あったところで煙突飛行粉もない。姿現しは、不得手だ。最早ナマエには、ゴールを目指して歩く他なかった。
さあ、あともうちょっとで砂利道が終わると安堵した瞬間、腕がふっと軽くなった。
「箒か煙突飛行粉使えって言ったろ。お前、とろいし世間知らずなんだから」
不意に聞こえてきた声にぎょっと振り返れば、シリウスが肩を竦めていた。その腕に、サブを抱きかかえている。
「電車が良いって言うんだもの」ナマエは、シリウスを睨みつけた。「それに私、貴方よりはよっぽどマグルのこと知ってるわ」
シリウスは何を言うでもなく、眠っているサブをがくがく揺さぶった。眠りの深い息子はそんなことでは目を覚まさないと知っていたものの、ナマエはさっさと息子を取り返した。はーっと、大仰に零したため息と共に踵を返した。「貴方って、子供の抱き方も知らないのね」小さく呻く息子の背を撫でて、ナマエはなだらかな丘の上に建つ家を目指す。
シリウスはちょっと眉を顰めたが、喧嘩を売ろうとはしなかった。早足で追いつくと、今度はナマエのバスケットを持ってくれた。
ナマエもその夫も黒髪などではないのに、どこから遺伝したのかサブは黒髪だった。
以前シリウスがサブを抱いている時に彼が夫だと勘違いされてから、ナマエは二人きりでいる時に息子を抱かせたくないと思っていた。大体にして、ナマエはシリウスと然程仲良くないのだ。尤も然程とはいえ、それはリリーやリーマス達と比べての話であり、他人から見れば仲睦まじく見えるのだろう。学生時代、シリウスのせいで迷惑を被った回数は両手足の指で足りない。
「ケーキ、お前が焼いたのか? お前、家事魔法すげえ苦手だったのにこれはまともだな。食えば違うのかもしれねえけど」
バスケットの中を勝手に覗きみたシリウスが、失礼なことを言う。
ナマエが黙っているのを同意か何かと勘違いしているらしく、シリウスは何かよくわからない話をベラベラとまくし立て始めた。客観的に見てシリウスは決してお喋りな男ではなかったが、ナマエの前では何故だか雄弁になる。勿論ナマエだけではなく、彼の親友たちの前でもそれは変わりない。それなのに、性別のおかげで「ナマエとシリウスは付き合っている」というデマが流れたものだ。
そりゃナマエだってシリウスのことは嫌いではないし、カッコイイ男の子だなと思ったりもした。ハンサムな異性から、好意らしきものが向けられているのは嬉しい。嬉しいと思うのを自覚して、ナマエはまた「浮ついているな」と心中に零した。
「……お前っていっつもそうやって俺の話聞いてねーよな」
ぼんやり色々な事を考えながらシリウスの話を無視していると、明らかにシリウスの機嫌は悪くなってきた。そろそろ我を曲げておかないと、あとで面倒になる。ハリーの三歳の誕生日会に招かれていながら、シリウスと喧嘩だなんて、馬鹿げたことはしたくない。
ふーっとため息をつくシリウスに、ナマエは肩を竦めて見せた。
「足が痛いから、そっちに気が取られて」
「足?」そう言うとシリウスの視線が足元に落ちる。あーあと言いたげな顔をした。「だから煙突飛行で行っとけって言ったろ」
シリウスはジーパンのポケットから覗いていた杖を手に取る。ナマエは尖った声を低く絞りだした。
「ちょっと、マグルがいるんだから……」
広々とした道の向こうから、犬を連れた老婆が降ってくる。二十メートルはゆうに離れているが、万一ということもある。砂利道もあと一メートルで終わるし大丈夫と言おうとしたものの、シリウスが杖を降る方が早かった。一瞬にして、足の痛みが失せる。
バスケットで隠すようにしていたから、きっと見咎められはしなかっただろう。それでも、何故なのか重たい気持ちになった。
「お前って、ほんとピーターそっくりのびびりだよな」
ナマエは黙っていた。足取りは軽くなったものの、その代わり、肋骨にひびがいったような鈍痛が胸を揺らがせていた。
シリウスはナマエが唇をきゅっときつく結んでいるのにも気づかないようで、相変わらず好き勝手喋っている。その雄弁さがナマエを傷つけるとも知らないで、喋っている。シリウスはこうした男だ。だから、ナマエは彼を選ばなかった。
「そんな似た者同士で夫婦って、やってけんの?」
ピーターだったら私が言うまえに靴擦れに気付いてくれただろうし、私の行動を責めるよりも先に痛みを気遣ってくれただろうし、例えそれが私の杞憂でも一言断りを入れてから治癒魔法を使ってくれた。そしてそうと言ってもシリウスは「んなの夫なんだから当たり前なんじゃねえの」と面倒くさそうに返すだけなのだろう。じゃ、貴方が夫だったら同じようにして下さるのと言えば、話はもっと抉れてしまう。
胸の内に広がる暗澹としたものを堪えて、ナマエは適当な言葉を口にした。「似た者同士だから、何となくね」
ナマエの台詞にシリウスはふうんと無関心な相槌を打つ。悪意はないのだ。ただ少し露骨なだけで、自分のことを過小評価しないだけのこと。誰よりもグリフィンドール寮生らしいと評される彼だから、そうなるよう育てられた自分には眩しく見える。
恋人としても夫としても親友としても上手くやれない相手だが、友情はそれなりに感じていた。自分が気後れしてしまうこと以外、多分シリウスと私の関係は友人のそれなのだとナマエは思っていた。嫌いではないし、一緒にいて楽しいとも思う。
「あーサブが女だったらなあ」
唐突にシリウスがサブを見て、残念そうに呟いた。きょとんとするナマエに、シリウスが悲しそうな顔を見せる。
「そうしたらハリーと結婚させれたのに、ハリーもサブもどこの馬の骨とも知れない女と結婚するのか……」
心の底から落ち込んだ声音だった。ジェームズへの好意といい、彼が他人に向ける愛情は棘がない。ナマエはクスクス笑った。
「私は男の子で良かったって思うわ。女の子だったら、ハリーと冒険出来ないじゃない」
「リリーを見てみろ、女だって冒険は出来るさ」
「私とリリーを蚊帳の外に出したがる方の言う事とは思えないわね」
「お前とリリーはあれは駄目、これは駄目って計画段階から五月蠅いんだよ」
「女ってそういうものじゃないの?」
ばつが悪そうに口を尖らせたシリウスだったが、丘の上に立つ影に気付いて、笑みを浮かべた。「おーい、ジェームズ!!」手をぶんぶん振りながら駆けて行くのが、犬のようだった。彼らのあだ名を聞いた時は「らしい」と女二人で頷き合ったものだ。
ジェームズが二人に手を振りながら近づいてくる。その途中でシリウスに思い切りタックルされて、脇の木に頭をぶつけた。
「シリウス、君いつからナマエと暮らすようになったの?」シリウスの首を脇で締めながらジェームズが笑う。
「ジェームズ、如何いう意味なのそれは」シリウスと結婚したのかとからかわれるのはごめんだと語気を荒げれば、シリウスとじゃれあっていたジェームズが「まずった」という顔をしていた。十中八九そうやってからかう気だったのに違いない。ナマエとピーターの付き合いを知って一番驚き「僕、シリウスと付き合ってるんだとずっと思ってたから……」と、デマの発信源であると白状したのは彼だった。
「また家なくなったって言ってたし、住む家欲しさにペティグリュー家の子供になったのかと思ってね」
シリウスの「家が無くなった」という台詞は「彼女と別れた」という意味である。
ナマエはぶすっとしているシリウスをぽかんと眺めた。
「いい加減自分で家を借りなさいよ……」
「うるせー」
「モテモテで実に羨ましいね」ジェームズがにやにやと笑う。「まあリリーという美しく可憐な妻とハリーという聡明な息子を持つ僕の幸福に叶う男なんてこの世にいないけど」
「私とサブを目前にして、よくもいけしゃあしゃあと言い放ったわね」
「サブは可愛いけどお前はとろいしな」
「わかったわかった。ピーターは二番目ということにしてあげよう」
「何で上から目線なの」
「相変わらず三人でいると騒がしいね」
ぎゃあぎゃあ喚いていると、背後から穏やかな声に呆れられた。「二人とも一緒に来たんだ? やあサブ、おねむさんだな」シリウスとナマエをひとまとめにしてから、リーマスは息子だけに挨拶する。
ジェームズの家がある方向から来たのを思うに、多分調理補助か何かで皆より早く呼ばれたのだろう。いやナマエが料理下手なのではない。リーマスが料理上手なだけなのだ。うん、だからであって、別に悔しくなんてない。いや悔しい。
「リーマス、何で私よりも先にサブに挨拶するの」悔しさから口を尖らせて八つ当たってみた。
「シリウスよりナマエより可愛いから」リーマスはハハハと爽やかに笑って、サブを抱きとる。ポンポンと柔らかな背中を叩いて優しい音を紡いだ。「ああ、大きくなった。そういえばジェームズ、リリーが部屋を掃除しろってカンカンだったよ」
ジェームズに向けられた台詞は驚くほど素っ気のない投げやりなものだった。リーマスの報告にジェームズの顔が強張る。
「そういう事は先に言ってくれないか、シリウス行くよ」自然にシリウスの腕を引っ張って連れて行こうとした。
「はあ? 何で俺まで」
面倒くさいと言わんばかりにだらけきった不平不満を口にするシリウスへジェームズがにっこり笑う。
「君、僕に会えて嬉しいだろう? 僕も嬉しい。だから片時も離れず一緒に部屋の掃除をしよう」
「てめ、それ単なる道連れじゃねえか! おいリーマス!」
「僕はサブあやしてるからパスで」
「じゃあ俺があやすよ」
「じゃあなんて言う人にはあやさせません」
貸せ! とリーマスに手を出すシリウスとサブを抱くリーマスの間に立って、胸の前でバツ印を作る。それからもブチブチ言っていたが、「急がないと!」と焦るジェームズに引きずられて消えて行った。
しょーがねーなーとか言っていたが、何だかんだで嬉しそうなシリウスに二人で笑いあう。二人とも相変わらずだ。シリウスはジェームズが好きだし、ジェームズもそれを知っててシリウスを手伝わせる。リーマスは一歩離れたところでそれを見ていて、リリーは騒がしい二人を叱っていて、その剣幕にピーターがオロオロして、ナマエはピーターとリリーを宥める。
学生時代から何年経とうと、何も変わりはしない友情がそこにはあった。
「なに、何やらかしたの?」
ナマエは口元から零れる笑みを手で隠しながら、苦しそうに問う。
「ハリーを喜ばせようとして雪を降らす呪文を口にしたんだけど、何故だか大漁の埃が降ってきてね。それはそれでハリーが喜ぶから調子に乗って降らせてたんだけど、リリーがね」リーマスがクツクツ笑った。
その場にいたなら止めてやれば良いのに、面白がって眺めていたんだろう。
「悪戯仕掛人の良心が聞いて呆れるわね」
「そんなことはないさ」にやっと悪戯っぽく笑ってから、リーマスが歩き出す。「少なくとも相対的にはね」
「さあ行こう。ハリーとリリーが待ってる」
ナマエも頷いた。そうね。リリーとハリーが待ってる。今日はハリーの三歳の誕生日祝いで、久々に皆で集まることが出来た。一時でも時間を無駄にするのが惜しい。皆で集まるのは、いつぶりだろう。去年の誕生日は――あれ、三歳なの? ねえ、そういえば如何してピーターがいないの? 私、出掛けにピーターと会ったかしら、だって今日は皆来てるのに、如何してピーターがいないの? 仕事なの? 私覚えてない。そもそも私はどこから来たの。リーマス、ねえ、リーマス、声が出ない。唇が動かない。足元がぐらついて消えていく感覚。カクンと宙に投げ出されて、体が強張る。溶けていく景色のなかでリーマスがナマエに笑いかけていた。
「ピーターは、君のためにジェームズを売ったよ。僕らを捨てたんだ」
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頬を伝う涙が皮膚とシーツの間で留まる気持ちの悪さに目が覚めた。体は痺れていて頭が重く、糸が切れてしまっているかのように指先一つ動かない。喉を潤すための唾液すら十分に出ず、音すら出すことが出来なかった。前後の記憶すら定かではなかったが、ナマエはただ一つ世間の殆どが知らない事実を――そして同じ月の下でかつての友が露わにした事実を知っていた。
己の夫の裏切りから、七年を共に過ごした友を亡くした喪失感が目覚めよりも先にある。ナマエは知っていた。長いあいだ眠っていた。リリーもジェームズも死んでしまった。もしもサブが生きていたら、三歳よりずっと大きくなっているだろう。ピーターは生きているだろうか? どれほどの間、眠っていたのだろう。本当に、いったいなんねんのさいげつが、じぶんたちのななねんは、
私たちの過ごした時間は、幻よりも確かなものではなかっただろうか。
獣の胎に棲まう