――ねえ、パパ。
 雑踏のなかでパパの羽織ってるローブを引っ張ると、パパの愛飲している“プロムナード”の甘い匂いが鼻先を掠めていった。

 パパの煙草はパパ本人だけでなく、“ニューヨーク”――パパがリビングの隅に築いた古本の街にも、一ページ一ページ、その紙の繊維にまで深く染みついている。「我が家の“ニューヨーク”に掛かれば、どんな芳香剤も一瞬で駄目になっちゃうわね」とはママの台詞で、実際トイレからガレージに至るまで“プロムナード”の侵入を防ぐのに成功した場所は一つもなかった。懲りずに「フローラルミント」やらの芳香剤を買い込むママの隣で、パパはにやにやと悪戯っぽく笑いながら、チョコレートとメイプルシロップの練り込まれた煙を棚引かせている。
 歯痛の酷くなりそうな匂いのなかで育った私だけれど、そうデロデロに甘やかされたわけではない。アメリカ生まれのママは「スポック博士の育児書」を崇拝していたし、パパは“マンハッタン”から出てきてママに提言してやるほど活気に満ちたひとじゃあなかった。尤も純血主義の嫌いがあるパパは、ママの効率主義を好き放題させておくほど寛容でもなかった。私にマグルの初等教育を受けさせるか否かで二人は数日話し合っていたけれど、結局私は“プロムナード”のなかで、やたら脇道に逸れたがるパパを講師に作文や算術の基礎を習った。
 作文の時間にかこつけて「ザ・クィブラー」の感想を書かされながら、私は「早くこの家から出て、真っ当な授業を受けたいなあ」と思ったものだ。しかし産まれた時から“プロムナード”の副流煙に侵されていた私は、最早あの匂いなしには生きていけないらしい。
 プラットフォームにひしめく人々の隙間を縫うように満ちる空気は無臭で、それでいてどこかくすんでいるようだった。人々の服からこぼれる埃を内包しているからか、それとも屋根の向こうに見える空が灰色だからかもしれない。パパとママと一緒に、私を詰め込めるだけのスペースが残る車両を探して歩いていると、肺のあたりがきゅうと締め付けられるようだった。
 私はもう一度、パパのローブを引っ張った。ローブの突っ張りを感じたパパが、不思議そうな顔で振り向く。
『なんだい、ナマエ。ラックスパートの生物学的分類についての質問かな?』
 ママがパパの髭を引っ張った。

『ホグワーツの組み分けって、本当にドラゴンが出てくるの?』
『当然だろう』
 わき腹に肘鉄を入れられようと、パパは黙らない。

『ホグワーツの校訓はとっくに覚えたろ?』
『うん』
 私は適当な相槌を返しながら、唾を飛ばして喋るパパから少しばかり離れた。
『眠れるドラゴンをくすぐるべからずという校訓は、新入生たちに眠ってるドラゴンを起こすことなく触れるか否かのテストを行う伝統から来てるんだ。ドラゴンは四頭いて、チャイニーズ・ファイアボールに触れたならレイブンクロー、ウェールズ・グリーンならハッフルパフ、ヘブリデス・ブラックならスリザリン、そして最も獰猛なハンガリー・ホーンテイル! こいつに触れればパパと同じグリフィンドールだ』
『どれにも触れなかったら?』
『そしたらお前、私らは娘の葬式をあげるのに焼け焦げの遺体をどうにかせんといけなくなるなあ、いてっ』
 流石に尻を蹴飛ばされてまで喋り続けることは出来ないらしい。どこからどこまでがパパお得意のホラなのかは分からないけれど、私はパパのローブに顔を近づけて、“プロムナード”との別れを惜しんだ。パパとママと、三人で暮らす三六五日にも。

 

 

ゆらぐ指先、染まる視界

 

 

「そんなの、嘘よ。ママが言ってたわ。帽子を被るだけで良いんだって」
 プラットフォームで感じたホームシックは、ホグワーツ特急内で出会った同い年の少女ロミルダ・ベインの一言で呆気なく崩れ去った。

「……ぼうし、へえ、帽子ねえ」
 そりゃママの手足が出た時点でパパの話に信憑性の欠片もないことは分かっていたが、それでもドラゴンの“ド”の字ぐらいは、寮選びに関係するのだろうと思っていた。私はまだまだパパの碌でもなさを理解していないらしい。
 本音を言うと、大嫌いなアステリアもホグワーツに入学すると言うし、七年という途方もない歳月をママとパパと離れて暮らすことには不安もあった。しかし今は、永遠にパパの講義を受ける羽目にならなくて良かったと、心の底からそう思っている。
 幸いにして私のコンパートメントにやってきたのは、高慢ちきのアステリアではなく、マグル育ちで社交性のあるロミルダだった。パパは純血主義寄りだけど、私はママと同じ中立的思想を有しているので、マグルのことは嫌いではない。そうでなければ同じく友達に飢えてるアステリアと仲良くやれたんだろうけど――アステリアと仲が悪いおかげで、ロミルダの話を興味深く聞くことが出来た。ロミルダはロミルダで魔法族の暮らしについて聞きたがったけれど、私が“プロムナード”のなかで育ったと察するや参考にならないと判断したようだ。

 ロミルダは魔法使いとマグルのクオーターである私でさえ躊躇う蛙チョコレートを一飲みすると、あどけない瞳をクリクリさせた。
「ナマエのパパ、きっと貴女を驚かせたかったんでしょうね。面白いひと、私のパパもそんなだったら良かったのに。勿論マグルのパパも詰まらなくはないけど」
 にっこり笑うと、溶けかけのチョコが白い歯列にこびりついているのが見えた。“あれ”を咀嚼したらしい。
 舌の上で蠢くものをかみ砕くのは、どのようなものなのだろう。私は膝の上にある、六角形の固いパッケージに触れてみた。楽しげにお菓子を物色するロミルダにつられて買ってしまったけど、自分で食べるか、ロミルダにあげるかはまだ決まっていない。
 ロミルダは持ち前の気の良さからパパを好意的に解釈していたものの、正直言えば私はロミルダのママとパパを交換したい。情報源としてだけでなく、ほら吹きのパパより、ちゃんとマグル社会でもやってけるロミルダのママのほうが単純に優れている。真偽に悩まされると眩暈がしてくることを、ロミルダは知らない。マグルはきっと、そういうデマやホラを嫌うのだろう。そうでなきゃマグル育ちのママとロミルダが真っ当で、パパやアステリアが碌でもない奴だということの説明がつかない。私も何とかしてマグルの感性を身に着けたいものだ。
 ホグワーツの授業についてこんこんと語るロミルダを尻目にそんなことを考えていたので、ふっと視界が暗くなった時、私はついに自分が考え過ぎで失神したものだとばかり思った。本当に失神したことはないけど、しわしわ角スノーカックの進化の過程について五時間も講義された時は“失神”に近い状態になったのは確かだ。大好物のミンスパイを運ぶママの気配にも気づかないでいられたのだから。
 しかしながら、またしても失神したわけではないらしかった。徐々に闇に慣れた視界に、ロミルダの少し鰓をばった輪郭が映る。

「あれっ停電かな?」
「テイデンってなに?」
 私は耳慣れない言葉に肩を竦めたが、ロミルダの返事も待たずに、杖を片手に上体を捻った。そのまま座席に膝を乗せて、上を向く。右斜め上にランプが吊るさっていたはずだ。夜の近い雨天は、それでも密閉されたコンパートメントよりかは明るい。さりとて十一歳が二人きりで過ごすには心細い暗さだ。どれだけランプに火を灯そうとしても上手く行かなかったので、私はため息とともにロミルダに向き合った。

「私、杖先に明かりを灯す呪文、パパから教わってないの」
「良いじゃない。私なんて作文の先生にスペルミスが多いってよく叱られてた――なんか、寒くない?」
 ロミルダが擦り合わせた手に、はーっと息を吹きかけた。私もトランクのなかからカーディガンを取り出して羽織る。「ほんと。パパがいたら、きっとディメンターだって脅かしてきたと思うわ」袖に手を通しながら、私は窓の方を見た。時期外れの霜が硝子にこびりついている。いつのまにかホグワーツ特急は運転を停止していた。寒さのせいなのか、冬の夜、決まってパパが話したがった“恐怖”を思い出した。

「ディメンター?」
「人間に怖い思いをさせて、楽しい気分を吸い取っちゃうんだって。まあ、そこらを出歩くもんじゃないけど」私はカーディガンの襟ぐりを掴むと、フードみたく頭に被った。「こうやって、ウウ~! 悪戯な女の子にはキスが必要だなってじゃれついてくるの。パパの十八番」
 ロミルダはにやっと意地の悪い笑みを浮かべた。
「素っ気ない風に言ってた割に、ファザコンなのね」
「それは勿論、魔法使いのパパも詰まらなくはないもの」
 口を尖らせる私も、テディベアの話を持ち出してからかってくるロミルダも、まさか本当にディメンターが乗って来ていた等とは露ほども思いつかなかった。何しろロミルダはディメンターについて詳しくなかったし、私は私で、一応は魔法生物学を専門に研究するパパから「彼らは魔法省に管理されていて、アズカバンから出てくることはないんだよ」と聞いていた。その“ネタバラシ”はしこたまママに叱られた後、不貞腐れるように発せられたものだ。ママに吐かせられた台詞は、パパの肩書よりずっと信頼できる。

 ダンブルドア校長の台詞も、恐らくはママの尋問と同じぐらい確かなものだろう。
 組み分けの儀式を待つ新入生のなかにはディメンターを目にした恐怖で半泣きになっている子も少なくはなかった。その後マクゴナガル教授の呼びかけに答えなかった生徒が何人かいた。何も言わず飛ばしていたことから察するに、彼らは医務室かどこかにいたのに違いない。私とロミルダはテディベアのことで口論するぐらい元気だったけれど、宴会の食べ物に有りつく頃には私はすっかりしょげかえっていた。
 ロミルダはグリフィンドールに組み分けられ、彼女の後で帽子を被った私はハッフルパフ寮のテーブルに着いている。ディメンターについて話し合う元気も、目の前の御馳走を食べる食欲も湧かず、私は一人でお通夜気分を満喫していた。
 ロミルダのおかげで忘れ去っていた“プロムナード”を恋しがる私に何か良いことがあったとするなら、それはハッフルパフの監督生が飛び切りハンサムだったという、その一点だけだった。しかし合理的なママと浮世離れしたパパの間に産まれた突然変異の俗人である私は、ギルデロイ・ロックハートの大ファンだった。写真でしか見たことのないロックハートと、目の前で柔和に微笑む監督生のハンサムさは比べるべくもない。セドリック・ディゴリーと名乗った青年は、私の心を慰めるどころか蕩けさせた。
 それが良くなかったのだろう。大広間からハッフルパフ寮までの道順もあやふやなまま、夢見心地の私はそのままベッドに運ばれた。

 新学期の宴会では隣に座っている人とも満足に話せなかったけれど、同室の女の子たちは皆心優しく人懐こかった。というより誰もがあのハンサムな上級生についての情報を知りたがったし、そして教えたがった。セドリックに可愛いガールフレンドがいることを知った代償として、私は一先ず友人と言って良い程度に話す相手が出来たし、昨晩の夢見心地は良い結果しか生んでいないように思った。自己紹介代わりに両親のことについて教え合いながら大広間を目指すのは実に楽しいことだった。目的地につくまでは、とても楽しかった。
 困ったのは大広間についてからだ。大きな両開きの扉から朝餉の温もりが漂うのを眼前に、私は変身術の教科書をベッドサイドへ忘れてきたことを思い出した。自分の失態へ友達を、それも昨日親しくなったばかりの友達を付き合わせるのは忍びない。
 玄関ホールを抜けて、先ほど四人で賑やかに上ってきた階段を下る。階段から続く長い廊下を走り抜けて、二手に分かれた道を右に――突き当りにある樽の山を目にし、私は昨晩の自分がどれ程愚かだったか嫌になるほど自覚した。ここがハッフルパフの入り口であるのは、壁に掛かる肖像画たちに見覚えがあることからも確かだ。何より、この樽をどうにかすれば入口が現れることは夢現のなかでも覚えていた。ただし、如何すれば良いのか思い出そうとすればするほどセドリックの輝かんばかりの笑みしか浮かんでこない。彼の人は私たち新入生を振り向きながら、タンタンと軽やかなリズムで樽を叩いて――ほら、この順番で叩くんだよ――うわあ、格好いいなあ。どんなに呻いても、頭を叩いても、セドリックの言動が思い出されるばかりで、樽の影にディメンターが潜んでいたか如何かさえ分からない。

 樽の前で立ちつくしている間にも刻一刻と授業の時は近づいてくる。このまま大広間にユーターンし、出来たてほやほやの友達に自分の馬鹿さを見せつけるのを許容するか、己に問いかける。私は立派な俗人だ。見栄っ張りである。答えはノー以外にない。
 ええいままよ。例え間違った順序で叩こうと、パパの大好物シュールストレミングのように爆発することはないはずだ。

『良いかい?』
 先ほどまで優しげに微笑んでいた表情が少しばかり厳しいものになる。
『ちゃんと、樽を叩く順番を覚えておくんだよ――』
 そうしないと、熱々のフィッシュ・アンド・チップスにされちゃうからね。顔面に熱いものを吹きつけられると同時に、私はセドリックの台詞の続きを思い出した。声にならない悲鳴と共に廊下にしゃがみ込み、痛む目をローブで擦る。鼻先にこびりつく刺激臭から、これが酢であることと、あの台詞はセドリックに多大なるユーモアがあるという事実を示すだけで、新入生たちに対する警告としていささか迫力に欠けることとを理解した。セドリックは「樽を叩く順番を間違えると樽が爆発してシュールストレミングがあたりに散らばるよ」ぐらい言って脅かしてくれたって良かったのだ。そうすれば私ははっと我に返り、樽を叩く順番をメモするか、同室の子たちに聞いて確かめただろう。
 ポケットに入っているメモには樽を叩く順番も、セドリックのガールフレンドの名前も記されていない。私はお酢だらけだった。
 固唾をのんで、というより面白い見世物が始まりそうだと集まってきていた肖像画たちが、新入生の醜態に腹を抱えて笑っている。埃を被ったような笑い声を聞きながら、私もヒクヒクと嗚咽を漏らし始めていた。昨日嗅いだ“プロムナード”の甘さはお酢の臭いに上書きされていたし、ほんの少しだけローブに残っていた煙も、お酢で洗ってしまえば残らないに決まっている。
 学校生活はまだ始まったばかりだというのに、こんな馬鹿げたことで立ち往生していることが情けなくて涙が出てきた。寮にも入れないし、こんな酷い匂いをまき散らしていては友達のいる大広間にも戻れない。もう家に帰りたい。パパがいれば「やれやれ、ディメンターのキスでさえナマエを大人しく出来ないらしい」とにやにや笑いながら、杖の一振りで如何にかしてくれるのに。

「……どうしたんだい?」
 お酢と涙でぐちゃぐちゃになった顔をあげると、そこには困ったように眉を寄せ、大きな手で口元を覆うセドリックがいた。セドリックの傍らにいた青年が、ブハと小さく噴き出したのを、私の耳はちゃんと捉えていた。恨みがましくそちらを睨むと、セドリックが彼に肘鉄を喰らわせた。セドリックはまだ口元を隠していたし、ダークブラウンの髪から覗く耳は微かに赤くなっていた。
 セドリックは私の返事を待つでもなく黙りこんでいたが、やがてわざとらしい咳払いと共に口を開いた。「なるほど、寮に入れなかったんだね」成程も何も、この刺激臭を嗅げば何が起こったかはすぐに分かりそうなものだ。憧れの人に自分の醜態を見られたばかりか、それを可笑しく思われたらしきことに、私は情けない顔をした。それがまたツボにはまったのか、セドリックの友人は小刻みに震えながら彼の肩に顔を埋めようとした。セドリックは気難しい顔で友達を押しのけると、口元から離した手をポケットに突っ込む。
「ごめんね、僕、まだ脱臭魔法と乾燥魔法を習ってないんだ。この、こっちの彼らも、お手本通りの上級生とはいかないしね」
 差し出されたハンカチは、セドリックの瞳と同じグレーだった。柔らかな布地に添えられた指を覆う肌は若々しかったけれど、パパと同じに節ばっていた。懐かしい様で見知らぬ指の輪郭が、ぼんやりと歪んだ。酸っぱい涙が頬を滑っていく。

 ここにはもう、困ったときにふざけながら助けてくれるパパはいない。
 パパの“マンハッタン”もなくて、“プロムナード”の煙もないし、「ザ・クィブラー」は図書室にあるかもしれないけれど、今はちょっと叩く順番を間違えただけで熱いお酢を吹きつけてくる狭量な樽以外の何がホグワーツにあるのか分からない。
 別にパパと同じ寮が良かったわけじゃないけれど、ここには私の家族が暮らした思い出もなければ、ホグワーツに来る前からの知り合いもいない。家から殆ど出ることなく暮らしてきた私には、アステリア以外の知り合いがいない。彼女と話す気はないので、実質的には一人ぼっちだ。それでも同じ部屋の子たち皆、私と同じ、丸きりピカピカで馴染みのない生活を心細く思っているのは分かっていた。
 私はこれから、ここで七年暮らすのだ。ママとパパと暮らした三六五日には、もう二度と戻れない。

 私たちはここで暮らして、勉強しながら大きくなって、そうして大人になっていかなければならない。
 大人になるということは“マンハッタン”も“プロムナード”も、「ザ・クィブラー」、そしてラックスパートなしでやってくことだ。
 それはパパのもので、私のものじゃない。

 スポック博士の厳しい教えも女の子の甘えたを矯正することまでは出来なかったようだ。
 お酢塗れでしくしく泣く私を寮の部屋に連れていってくれたのは、パパでもスポック博士でもなく、セドリックだった。セドリックは酸っぱい臭いのする私の頭を撫でながら「すぐに慣れるよ」と、私の不安を知ってか知らずか、そう慰めてくれた。
「入口の樽はちょっと気難しい奴だけど、談話室の暖炉はクランペットを焼いてくれる、気の良い奴だ。それに、果物皿の絵を見たかい?」
 私はトランクから替えの制服とローブを取り出す傍ら、頷いた。セドリックがにこりと微笑う。
「本当は一年生にはまだ教えちゃいけないんだけど――上級生たちの妬みでね。僕も知ったのは二年の冬だった――絵の中の梨をくすぐると、厨房に入れるんだ。屋敷僕妖精たちは親切だから、何か食べたいものがあったら行ってみると良いよ」
 セドリックは鞄のなかから取り出した小さな包みを私の手に握らせた。袖を捲って腕時計を確かめる。「授業まではあと四十分ある。ゆっくりご飯を食べる時間はないけど、お酢の臭いを落として着替えるには十分だろう。着替え終わったら、それを食べると良い」
 すっかりお酢の臭いが染みついてしまった手が私の髪をかき混ぜる。
「昨日も言ったけど、ようこそハッフルパフに。僕たちは――入口の樽も含めて、君を歓迎するよ。だから、ここを嫌わないで欲しいな」
 また潤みだした瞳に、セドリックの黒い髪と、ネクタイの黄色が滲んでいく。私のネクタイと同じ配色だ。黒と黄色のハッフルパフ・カラー。ホグワーツ特急のなかでロミルダと各寮について話していた時「ミツバチのおしりみたいで、なんだかカッコ悪い」と評した取り合わせが、風邪を引いた時舐めさせられるビタミン・ドロップスのように優しげに見えた。

 どこまでも監督生らしく面倒見の良いセドリックは、出て行く前にちゃんと呪文学の教室がどこにあるか教えてくれた。
 酸っぱい匂いのする制服を脱ぎながら、セドリックの出て行った扉を、つい二十分ほど前に同室の子たちと潜った扉を見つめる。
 あの扉の先には“プロムナード”はないけれど、代わりに時々フィッシュ・アンド・チップスの臭いが漂い、パパやママではない誰かがいる。このハッフルパフ寮で私は一人ぼっちの子供になるわけではなく、私だけの臭いや興味関心を持つ大人になっていくのだ。

 ハッフルパフ寮の樽は時々熱い刺激臭でうっかりものの生徒を襲ってくるけれど、監督生はとてもハンサムで優しい。
 あの、ハッフルパフ気質そのものと言える人の後輩として、凡そ二年ほども同じ寮で暮らせたのだ。私はしあわせだったのだと思う。
 大して可愛くもない、酢臭い新入生にああまで優しく出来るあの人もしあわせだったと、私はそう思いたい。