灰色の空に、黒々とした雨雲が重たく立ちこめていた。

 天から降り注ぐ雨には白い風花が混ざり、地は黒々とした繁みに覆われている。
 幾らも人の手が入っていないその土地は如何にも豊かで、恵まれているように見えた。風花は溶けることなく、硬質的な音を立てて宙に赤い花を咲かせる。繁みは降る雨に、もしくは吹く風に激しくその枝葉を震わせ、赤い実をつけていた。
 自我の確立に手間取ったのもあって、それが花でも実でもないと気付くには些かの時間を要した。よく目を凝らして見ると、風花は白い天馬で、繁みは地を往く人の群れであった。人、人、人……無数の命が天地を埋め尽くし、殺し合っている。
 皆それぞれに鈍く光る甲冑を身に付け、血に塗れた得物を手にしている。その誰もが自分のものと違う意匠の甲冑を者を見つけては一も二もなく切りかかっていた。彼ら一人一人に意思があり、個々の人生があるのだとはとても思えない。
 人々が刃を打ち合う鈍い音が地鳴りとなって大気を揺らし、熱気となって雨脚を弱らせる。ナマエは、大平原を埋め尽くす大軍の激突を他人事っぽく眺めていた。
 不思議と、焦燥感は湧いて来なかった。根っから無感動なのも関係あるのだろう。しかし、それ以上に、今自分の見ているものが“人と人の諍い”だとは思えなかったからだ。“戦争”と称するのを躊躇われるほどの、途方もない規模の大戦──ナマエは信心深いわけではないが──自然と、神の存在を彷彿させた。

 一体、誰が、何のために争っているのだろう?
 そして、この戦争の果てに報われる者が……幾千幾億の屍の上で幸福になる者がいるのだろうか。もしいるのなら、会ってみたかった。単純な好奇心。
 会って、自分の目で、耳で、手で触れてみたい。このまま手を差し伸ばすことも出来ないまま、遠い世界のものとして眺めているだけは嫌だった。眼下では今も尚激しい戦いが繰り広げられている。渦中にある命のどれ一つとして、ナマエには救うことが出来ない。自分は彼らの遙か上空にあって、手が届かないからだ。
 もしくは「傍に寄って、手を差し出したところで知覚してもらえないのではないか」という不安があって──何故だか「そんなことはない、きっと気づいてくれる」という怒りも湧いて──無数の恐怖から動くことが出来なかった。何にせよ、この恐怖を諦観にしたくなければ、一刻も早く動かなければならないと思った。
 諦めてしまえば、二度と他人に手を差し伸べることは出来ない。
 ただ一言「もう良い」と告げて、この腕に抱いてやりたいだけなのに。
 
 尤も、本当のところでは「馬鹿馬鹿しい」という思いもあった。
 手が届かないのは、これが夢だからだ。これはナマエの現実ではない。夢だ。
 ナマエの背は未だ父親の腰ほどもなく、こんな大きな戦に駆り出されることは先ずない。傭兵仲間から聞いた与太話を真に受けて、夢に見てしまっただけのこと。
 手を差し伸べるも、救えないも……そもそも、そう希う対象そのものが現実に存在しないのだから、出来るはずがない。果敢無く散っていく命の何れにも手を差し伸べることが出来ない虚しさ、“自分”が何者だったのか喪われていく恐怖──その何もかも、ナマエが作り出した虚実に過ぎない。自らの産み出した妄想のなかで、人々は争い、もがき、呪い合って、やがて血だまりのなかで息絶えていく。
 ナマエはその一部始終を天から眺めて、いつしか何にも感じなくなっていった。

 目を覚めると、そこは古い馬小屋のなかだった。
 藁の山から這い出たナマエに、傭兵仲間と話し合っていた父親が苦笑する。
「宿屋の一つもありゃあ良かったんだが……寒さでよく眠れなかっただろう」
 壁をくりぬいただけの窓から、激しい雨風が入り込んでいた。あんな夢を見た理由が分かった気がする。ボンヤリ外を眺めていると、肩に毛布が掛けられた。
 振り向いた先には父親の姿があり、その向こうでは仲間たちが思い思いの時間を過ごしている。札遊びに興じる者もいれば、生真面目に明日の出立の準備をする者もいる。たき火の爆ぜる暖かな音、砥石が滑る音、勝った負けたの嬌声に、自分たちが乗ってきた馬の嘶き。ナマエの指が知らず知らず、腰の短剣に伸びた。
 ほんの数日前に父親から譲られたばかりのものだ。父親は万が一の時のために与えただけで、他意はないらしい。それでも仲間たちは真新しい短剣に「これで一端の傭兵だ」と言って、剣術や弓術を教えてくれるのだった──大いに面白がって。
 その時々で皆と過ごす場所が変わっても、ナマエにとってはこの傭兵団が唯一の居場所で、確固たる“現実”だった。革で出来た鞘を撫でて、心から安堵する。

 無表情のなかにも娘の安心を感じ取ったのか、ジェラルトは目を眇めた。
「この雨だ、止むまでは仕事どころじゃねえ」
 ナマエの肩からずり落ちた毛布を戻して、ぎゅっと肩を抱く。
「まだ日も昇ってねえし、もう少し寝ててもバチは当たんねえさ」
 たまには父親らしく一緒に寝てやると言って笑うジェラルトに、団員たちが「じゃあ俺は母親らしく子守歌を」「僕は兄らしく腕枕を」と言って冷やかす。微笑ましいやり取りに胸が温かくなったけれど、それが顔に出ることはなかった。
 ぺたりと口元に触れた途端、毛布ごと父親に抱きかかえられる。お前はお前で良いさ。そう低く囁く父親の腕のなかで、ナマエは少しずつまどろんでいった。
 瞼の裏には夢にみた大戦が蘇っていたけれど、もう倦むほどの諦観はなかった。

 天も地も、一つの大きなうねりと化して、無数の命を呑みこんでいく。
 この世に“運命”というものがあるなら、きっと、あんな風だと幼心に思った。
 いつか自分の現実で“運命”と対峙した時には、徒に呑まれ、流されないための力が欲しいと望んだ。自分の意思で、自分の望みで、自分の感情で生きていきたい。
 誰よりも、何よりも強くありたかった──あの諦観を忘れるために。
 

むかしがたり