私のための紅茶を一杯と、角砂糖を四つ。そうしたら、二度とここへ来ないで頂戴。

 唐突な別れの言葉に、黒衣の男は何を言うでもなく佇んでいた。その手にはコーヒー豆の袋が収まっており、背後にはしゅんしゅん嘶くヤカン。男の仏頂面もお構いなしに喧しいヤカンは酷く滑稽だったけれど、ナマエは笑う気になれなかった。否、もう何年もこの男の前で笑っていない。この男の淹れるコーヒーが苦すぎるせいだ。ナマエはコーヒーが好きではなかった。
「……茶葉はどこにある」男――セブルス・スネイプの問いに、ナマエは抑えた声で「流しの下よ」と返した。
「流しの下にあるわ」
 もう一度繰り返す。

 ナマエは机の上に両肘をついて、頭を抱え込んだ。長い金のカーテンが薄暗い視界を覆う。日の下では眩い髪色も、白熱灯の下ではくすんでいる。ナマエは目を瞑り、セブルスの生活音から意識を逸らそうと努力した。蓋に抑えつけられていた空気が跳ねる音、陶器の触れ合う冷たい音――沈黙が際立つ。何も言わないのねと、ナマエは唇を噛んだ。貴方にとって、私は何だったのかしら。
 いつか、きっと、私のことを知ってくれると思っていた。茶葉は流しの下、嫌いなコーヒー豆はいつだってヤカンの隣。貴方は私がコーヒーを嫌いだということさえ知らない。ナマエは舌の上に貯まって行く非難を無理に呑み込んだ。肺が空虚で膨らんでいく。声に出して詰ることが出来たなら、楽に終わることが出来たのだろうか。否、最初から何もかも見え透いていたではないか。
 涙に濡れた頬が冷めていく。そっと涙を拭って、顔をあげた頃にはもうセブルスはいなかった。
 流しの横に置いてあるポットとカップも冷めきっている。ナマエは堰を切ったように大声でセブルスを詰り始めた。嫌われたくなかった。最初から最後まで、相手を好いていたのはナマエだけだった。調合で荒れた指に触れられるのが好きだった。掠れた声に呼ばれるのが好きだった。乾いた唇で口付けられるのが、幸せだった。最初から利己的な関係だとは分かりきっていたことだ。
 十六歳の頃、私だけが求めていればいいと思った。あれから七年が過ぎて、今は貴方のことが好きすぎて、もう求められない。

「勝手に、教職にでも何でもつけば良いじゃない……!」
 ナマエは声高に、先まで目線の先に立っていただろう人影を罵った。

 後から後から涙が零れてくる。勝手にホグワーツで、愛した女の子供が長じるのを待てば良い。どうせ、自分に気持ちがないことなど最初から知っていた。知っていたけど、好きだった。セブルスと共にいるだけで幸せだった。それ以上を求めたことなどない。負担になるような、そんな要求をするほど傲慢ではないつもりだ。この七年間、ナマエはセブルスの都合に合わせて生きてきた。セブルスが急に訪ねてきても良いよう、家で出来る職についた。旧友からの誘いがあっても、セブルスからの連絡次第で断った。それでも、セブルスの前では何でもない振りをし続けた。全てセブルスとは無関係な自分の望みだったのだと、嘘をついた。何の用事もなく暇だったのだと、セブルスを責めるような言動を取らぬよう細心の注意を払い続けてきた。そんな風に暮らしてきたナマエだ。ホグワーツで教職に就くと知らされようと、何の不満があったわけではない。一年の殆どを共に過ごせなくなるからと言って、今までと何が変わるだろう。セブルスの好きなように来て、そして帰って行けば良い。七年をセブルスの都合で塗りつぶしてもまだナマエは彼が好きだった。
 共に過ごす時間が一分一秒増える度、ナマエのなかにあるセブルスへの愛情は深く、強くなる。だからこそ耐えられなかった。

『一年の殆どを別に過ごすこととなるだろうが、籍を入れないか』
 見返りが欲しかったのではない。他人に見せびらかしたかったわけでもない。ただ、いつか彼女を忘れてくれるかもと思った。

 あの人でないのなら、この人にとっては誰でも同じなのだ。求婚の言葉に、ナマエの気持ちは沈み切っていた。伊達に七年一緒にいたわけではない。ナマエは、セブルスのことをよく分かっている。彼の気持ちが自分にないとは、身に染みて理解していた。
 セブルスはきっと己の気持ちを知られたくなかったのに違いない。誰に知られることのないよう、全て誤魔化してしまいたいのだろう。万が一にも彼女の息子に自分の恋心を知られることのないよう、全てを。薬指を犠牲にして、ナマエの気持ちを利用して、それで構わないほどにリリー・ポッターを愛している。彼女が死んでから二年が経った。永遠にも近い歳月が過ぎても、きっとセブルスは彼女を忘れない。私は、それでも――この女はきっと自分の嘘に協力してくれると、一体いつからそう思われていたのだろうか。ナマエが懸命に隠していた執着に、いつから気づいていたのだろう。自分以外の何も必要としていないと、そんな風に軽んじられていたのだろう。

 もう捨てる他ない紅茶を前に、ナマエは堪らなく惨めだった。どんなに軽んじられても、嘲笑われても、惨めな女と思われていても、まだ愛している。セブルスの目の前で取り乱したくはなかった。彼を詰りたくなかった。彼を傷つけるかもしれない振る舞いは出来なかった。お願いだから戻ってきてと、結婚して下さい、愛して下さい、行かないで、傍にいて、惨めな懇願を口にする。
 彼がもう聞いていないから、泣くことが出来た。

 玄関を前に、台所に通じる扉を背に、セブルスは彼女の声に耳を澄ませていた。ローブのポケットには、一対の指輪。
 何もかもナマエが正しいと、セブルスはそう思った。セブルスの内にある時計はリリーなしには動かない。誰かに求められれば時を刻みだすかもしれないと、ナマエの気持ちを利用した。いつか忘れられるだろうかと、彼女に触れてみた。慰めを求めて、その体温にリリーを重ねてみた。いずれナマエから捨てられるだろうとは分かっていたが、自分から別れを告げることは出来ないでいた。かつてあった友情は疾うに消え去っていたし、愛情は欠片もない。それでも共に過ごす一時に、孤独はなかった。その穏やかさを恋と思い込めれば良かった。彼女に求められることで得る安寧を愛だと誤魔化すことが出来たなら、それとも彼女を繋ぎ止められるだけの傲慢さと冷酷さが――否、彼女を踏みにじって構わないほど愛していないわけではなかった。七年前、代用品と割りきって肌を重ねた。いつしか代用品と思うのを耐えられなくなるほどには、それだけの時間が過ぎた。己が隣にいない幸福を願うぐらいには好いていた。しかし彼女は知らなくて良い。最後までただ利用されたのだと、そうやって自分を詰れば良い。そうして自分の知らない男から愛されると良い。その唇からも、皮膚からも、記憶からも、全てから自分のことを消し去って、幸せになると良い。
 誰のものでもない婚約指輪を握りしめると、セブルスは静かに“姿現わし”で彼女の部屋から去って行った。永遠に。

 もう彼女を目にすることも、コーヒーを淹れることもないだろう。本当はセブルスだって紅茶のほうが好きなのだ。
 

騙る女と語らぬ男