薔薇咲く垣根の向こうから、あなたが私を呼んでいる。
 慣れた景色。慣れた黒髪。慣れた薄茶の瞳。私の幼馴染が私を呼ぶので、私は庭に面しているこの部屋が嫌いだった。幾度か弟の部屋と変えてと言った事もあるけれど、両親も弟も誰一人として私の訴えを本気に取るものはいなかったと思う。そうなれば部屋数の限られた家のこと、仕方がないので私は私の部屋で過ごすしかなかった。春が散って、夏が照って、秋が積もって、冬が溶けても、私はここにいる。
 部屋の壁紙が褪せて、椅子の背が欠けるほどの歳月。鮮やかだった生家が衰えていくのと同じに私達は育っていった。

 あ、私はあなたの事が嫌いだから、“私達”のなかにあなたは入ってないのよ。そう言うと彼――ジェームズは大人みたいに気難しい顔をして、なんでスリザリンなんかに入ったんだいと、スリザリンに入ったから性格が悪くなったのだと私を責めた。
 夏季休暇の度に繰り返される批難はゆるゆると摩耗してはいたが、面白いと感じることはない。言葉が丸くなればなるほどに私達の距離は離れていって、六年生になる頃には垣根の向こうに彼の姿があるのに違和感さえ覚えた。グリフィンドールのお祭り男、悪戯仕掛人として人々の口の端に上らぬ日がないジェームズと、一介のスリザリン生として人々の目に留まることさえない私が面識があるというのはちょっと信じられないものだ。尤も私達の関係を知れば皆納得するのだけれど。
 私のように有り触れた女がジェームズと繋がりを持つのに“幼馴染”ほどしっくりくるものはない。幼馴染は選べないし、選ばれないから。

 ジェームズは垣根の向こうから私を呼ぶと、その下の隙間をくぐってこちらへやってくる。
 ただでさえくしゃくしゃの黒髪に葉っぱが付き、小鳥の巣のようになっていた。庭を横切りながら、毎日毎日飽きもせず「グリフィンドールに入れば良かったのに」なんて今更なことをぼやくジェームズを睨む。そう組み分けられたのよ。それとも何? あなた、スリザリンの純血主義さん達があなたたちをこぞって非難するように、スリザリン全体を軽蔑するわけ?と言ってやれば、いいや、君は嫌な奴じゃないって知ってるからねと肩をすくめるのだ。だったら一々当てつけてくるなと思っても、私たちの“いつも通り”から外れるのが面倒くさくて「そう」とだけ返す。

 自己を振り返る趣味はないので端的に言うけれど、私は随分と意地の悪い性格をしている。
 ジェームズの言うとおり、昔はそれほどでもなかったと思う。ホグワーツに入る前は、私は自分が彼と同じグリフィンドールに選ばれると信じていた。スリザリンにくみ分けられた後も、寮同士の諍いに巻き込まれたくないと思っていた。レイブンクローにも、ハッフルパフにも顔見知りがいたし、弱い者イジメをするグループからはいつも距離を置いていた。思い返してみても、いつから意地が悪くなったのかハッキリとは思い出せないけれど、あんなに親しみのある幼馴染みを冷淡にあしらう私は意地の悪い人間だ。
 少なくとも六年生になった頃には今の私になっていたし、その頃になると生来の怠惰も関係して他人とよく衝突したものだ。没個性的で非友好的という救いようもない私だったが、ジェームズとは軽い小競り合い程度で、怒鳴り合うような喧嘩をした覚えがない。仲が良かった頃も、距離が離れてからもそうだ。
 多分お互いに期待というものをしていないからだろう。

 ジェームズは頭の飾りを外しながら歩いてくると、窓の縁へ膝を置いて、器用に部屋の中へ入ってきた。よいしょと全く重たげではない台詞を零した彼が、カーペットを汚してくださる。何故か――多分私が懲りないからいけないのだろうが――私がカーペットを新しくした日に限って、ジェームズは泥まみれになるほど無邪気に遊んでくる。茶に薔薇柄のレトロクラシックなカーペットにジェームズの足跡が記され、レトロクラシックは歴史的資料になる。ウンザリ顔の私に気づいたジェームズは、まるきり悪びれずに先の話題を引っ張り出してきた。
 勿論君はイヤなヤツじゃあないけど、学内じゃ鼻にも引っ掛けてくれないからね。わざとらしいため息と共に、ジェームズがぼやいた。分かりやすい嫌みも、ちっとも痛くはなかった。卒業するまでには家事魔法も真面目にやっておかないとなんて薄ら考えていても、私はジェームズをやり込めることが出来る。
 友達をつくる権利は私にだってあるわ。ジェームズが口を尖らせる。友達を無視する権利も? あら、あなたがまだ私の事を友達だなんて思ってたとは初耳ね。じゃあ何だって言うんだい。腐れ縁。まあそれでも良いけど……。良いなら文句を言わないでよ、ジェームズ。第一私、今宿題してるのよ。あなたは終わったの? いいや終わってないよ、ナマエ。終わっているかもしれないと思うのなら、君は聖マンゴへピクニックに行くべきだね。どら、僕がつきあってあげようか。シリウスたちも呼んで、パァッとさ。あなた如きを読み違えただけで、病院へなぞ行っていられないわ。私の邪魔なんかしてないで、宿題に手をつけたら? 言っておくけど魔法薬学は私も苦手よ。最終日に泣きつかれても手伝えないからね。いいよ、分からなかったらリリーに聞くから。チエッと口を尖らせた彼が、彼女について語り始める。彼女さ、自分がデキが良いからひとに教えるのは苦手だけど、すっごく義理堅いんだ。さっきまで飄々と私の軽口に応じていたジェームズが、とろけきった笑みを浮かべる。まるで、とびきり美味しいキャラメルについて話すかのように。
 勿論彼女はキャラメルではないし、私やジェームズのように純粋な魔法族でもない。特別マグルに対する否定的な思いはないけれど、魔法族は魔法族同士、マグルはマグル同士、共通する話題や知識を持った相手と群れを成すのが自然だと思っている私にとって、やはりホグワーツきっての才媛がマグル産まれなのは面白からぬことだった。十一歳になるまで魔法に触れずに育った人間が学年主席だと、親戚のなかにはとやかく言ってくるひともいる。頭では「スタートラインは同じなのだ」と分かっていても、露骨に「なんだお前、あんなに得意の魔法史でもマグル生まれに勝てんのか」などと言われれば彼女を恨んでしまう。私の周りには、そういう子が沢山いた。そんな私たちの気持ちは、ジェームズには分からないのだろうけど。
 リリー? 彼女の名前を口に出すのに、幾らか時間がかかった。リリー・エバンズ? あなた、いつ仲良くなったの? ついこの間。手紙のやり取りにも応じてもらえるようになったんだ。何でもない風に言ってのけるジェームズはどこか上の空で、目の前の私なぞ如何でも良さそうに遠くを見ている。……そう。私は頭のなかの呪文集を捲りながら相槌を打った。カーペットについた泥を消し去る呪文よりも、人を消し去る呪文のほうが早く見つかってしまう。そう、そうなの。平静を保つことは出来ても、脳裏に浮かんだ呪文を口にすることは出来なかった。そしてこれからも出来ないだろう。そうしたらつまり結末は見え透いているのだ。
 ふっと我に返ったジェームズが笑う。ナマエ、いい加減清掃魔法の一つや二つ覚えなよ。
 ぎゅっと握りしめた杖が汗で滑る。余計なお世話よ。嫁に行くわけでもあるまいし。唇を噛んで、母さんから習ったばかりの清掃魔法を口にする。絨毯から泥は剥がれたけど、人間の心は絨毯ほどシンプルに出来ていない。些細な泥は私のなかにこびりついて、いよいよ闇の魔術を繰るのに十分なほど溜まってしまった。ジェームズ、今私が何の呪文を食もうとしたかなんて、あなたには分からないのでしょうね。あなたには。

 来年の夏、薔薇咲く垣根の向こうから呼ぶあなたも、呼ばれる私も、ここに居はしない。
 私はジェームズと当たり障りのない日常を口遊んでは、老いた家の軋む音へ耳を澄ませる。ギイギイと誰かの靴底へ傾ぐ音、母さんが魔法に失敗して焦る声、それを見て笑う弟、彼らのやり取りに気付いて視線を遠くへ向け、笑うジェームズ。
 何もかも少しずつ老いていく。一秒ずつおいていく。やがて過去へ置いていく。

 耳を澄ましても何も聞こえない。

 静謐な暗闇の奥へ目を凝らすため、私は表情を覆う仮面を外した。
 顔半分だけ隠す者が多いなか、私は完全な仮面を使っている。楕円に笑う男の顔が彫られていて、友人とノクターン横丁を散策している時に買った物だ。その友人は先月我が君の怒りを買ってしまったので、この仮面の主を知る者はもういない。これから時を重ねて行けば、仲間の名を知ることもあるのかもしれないが、我が君へ仕えるようになってまだ数年しか経たない新米死喰い人へ名を教えてくれるような愚か者はここにはいなかった。私の唯一の友であり、我が君の下へと誘ってくれた人物である彼女が死んでしまえば、私は孤独だった。
 だから外した仮面をしみじみ眺めていた私は、私を呼ぶ男に心当たりはなかったのだ。「ナマエ?」仮面の下の眉は訝しげに寄せられているのだろう。杖先に明かりを灯して相手へ向ければ、男は素直に仮面を外した。男はある意味で意外な人物だった。
「あらスネイプ。それともスニベリー?」
 くっくと喉を鳴らせばスネイプは不愉快そうな顔をした。分かりやすい男だ。「こんばんは、如何したの?」憎い男の幼馴染である私へ、今まで一度たりとも話しかけてきたことのない彼がこんな場所で一体何の用なのだろう。
 スネイプは僅かに逡巡してから口を開いた。「貴様が何故ここにいる」
「私は純血よ。それに、スリザリン生だわ」うっかり零れた台詞に笑う。「いけない。まだ学生気分が抜けないのよね。スリザリン出身の私が居て可笑しいことはないでしょう。ス二ベリー、向こうに行った純血だっているんだから、こちら側に残る純血がいたって自然な話よ」
 わざと挑発したにも関わらず、スネイプは動じる様子もなく黙っていた。

「ポッターは知っているのか」
 長々と考えた挙げ句、碌でもない疑問に晒された私はむっとした。
 死喰い人になるのはとても恐ろしいことのように思っていたけれど、存外ひとを殺すのは呆気ないことだった。元々“そちら”の才能があったようで、術を放つのに然程の反動もない。幼い日、ジェームズと二人で作った“ゴム鉄砲”とやらを放ったときと同じだ。「ほんのちょっと手を動かしただけ」で「こんなことになるなんて思わなかった」という驚き。更に驚いたのは、ビクビクと胸を上下させる死体を前にした自分が「ちょっと手を動かすだけでこんなことが出来るなんて」と、高揚感を覚えることだった。ひとを傷つけるのは思った以上に簡単で、楽しいことだ。少しずつ歯止めが効かなくなっているのは分かっていたし、人を殺すことや傷つけることにこれほど抵抗がないのは珍しいことだとも自覚していた。この間も、我が君の前でグレイバックを挑発して肋骨を折った。それでも懲りずに、今はこの男を傷つけようとしている。自分のために。
「逆に聞きたいわね。リリー・エバンズの名字が何に変わったか、知ってる?」
 薄暗いなかでもスネイプが傷ついたような顔をしているのが分かって、私の胸にねばついたものが満ちていく。日向に置き去りにしたチョコレートのようにドロドロしていて、甘くて、触れるのを拒むような何か。「それと、一緒よ」くっと嘲るように喉を鳴らすと、スネイプは奇妙な顔をした。
「勿論、勿論……それは、」恐らくジェームズたちが彼を虐めた理由の一つだろう鈍臭い話し方で、スネイプは言葉を続けた。「それは僕も知っていた。ただ、」
 とろくさくて幼い、童貞臭い話し方だと思った。それと同時に、素直な話し方だとも。
 死喰い人になるような人間が――それも、学校一の嫌われ者で、陰険さで有名な彼がこんな純な雰囲気で話すとは思いもしなかった。でも、理由は分かっている。ジェームズと同じ。誰もがみんな、あの才媛に一目おいて、あの緑色の瞳に映ることを願う。潔癖で正義感が強く、負けん気が強いのに、屈託なく自分の弱みを他人に晒すことが出来る彼女と、一緒にいたいと望む。彼女の前ではみんな素直になる。影で彼女の悪口を言っていた友だちも、皮肉屋のジェームズも、スネイプでさえ。
 初めてひとを殺したとき「もうこれで彼女と同じ土俵で戦わなくて良い」と思った。後戻りは出来ない。私にはそういう絶望が必要だったし、自分はそういう人間なのだと思い込みたかった。私は彼女とは違う。生まれつきどうしようもない人間で、自分の選択云々ではなく最初から何もかも彼女とは違うのだと。

「お前は、ポッターが好きなんだと思っていた」
 あなたに選ばれなかったのは、わたしのせいじゃあない。

 仮面が床に落ちる。私は両手で顔を覆って、しゃがみ込んだ。
 自分で自分の毒に侵されて泣きじゃくるなんて、今時子供だってそんな馬鹿なウッカリをしない。突然泣きはじめた私の背に、スネイプが躊躇いがちに触れ、おっかなびっくり撫で始めた。遠い昔、誰かにしてもらった時のことを思い返しながら撫でているかのように、ぎこちなく。
 同情か憐憫か自己投影かは分からないが、何故優しくしてくれるのとか、殆ど初対面に等しいのに馬鹿みたいとか冷静に考えつつも、私は少し安らいだ気持ちになれた。リリー・ポッター。リリー・ポッター。呪いに似た響きを繰り返し続けていた頭が静かになる。しくしくと夜のしじまよりも静かに泣いている私へ、スネイプが口を開く。「何の指令を受けた」恐らく本題はこれだったのだろう。スネイプは声を潜めた。「まだ――まだ遅くない、全く非合理的だ。僕らはまだ少数派なのに、あの方の――ちょっとした気まぐれで――次々減っていく、あの方にとってもマイナスなはずなんだ」言葉を選んで引き留める彼は、多分まだ幾らでもやり直せるのだろう。手は汚れているかもしれないけれど、彼の人間性はまだ死んでいない。然して親しくもない、寧ろ嫌っていたはずの同級生を案じる気持ちがある。

「……神秘部を襲ってこいと言われたわ。明日よ。行くわ」
 スネイプが心中を晒した手前、私は酷く素直に答えた。
 我が君から口止めされていたわけではないし、この後に及んでスネイプをスパイだと思っているわけでもないけれど、この時勢どこに裏切り者が潜んでいるか分からない。踏み込んだ先で闇祓い複数人とご対面したくなければ、やはり自分がどんな指令を受けたかは黙しているべきだろう。でも私にはもうそんな損得勘定をする必要はなかった。視界を滲ませていた涙が渇けば、信じられないと言いたげにぽかんとしているスネイプが見える。馬鹿か。ため息でも吐くかの如く静かに私を罵倒した。
「お前は馬鹿か」
 二度も言うなんて酷い。

「疾うに向こうへ情報は漏れている。無駄死にしたいのか」
 最早声量を抑えることもなく、スネイプが言い放った。
 無駄死に。無駄死にか。そうかもしれないし、そうじゃないのかもしれない。何をもってして無駄というのか、私には分からなかった。元から説教をされるのは嫌いだが、なかんずく男からされるそれが嫌いだ。ジェームズを思い出す。私はぐいと涙を拭うと、スネイプに向き直った。「行かなきゃ、弟が行かされるわ」私を追ってスリザリンを選んだ弟。私と違って友達も多いのに、私を慕う馬鹿な弟。その一杯のお友達に引きずられて、やがて死喰い人になるだろう弟。「伯父が不死鳥の騎士団にいるの」
「それに私の家族はポッター家と睦まじかったから、我が君は忠誠をお疑いになっているのよ。犠牲を出せということね」
 政府や不死鳥の騎士団に背いても抵抗しなければ殺されることはない。でも我が君に背けばどの道殺される。闇の印を選んだ私の感性はそんなに可笑しくないはずだ。ヤケッパチになっていても、家族を思う気持ちはある。いや、もしくは、そういう人間らしい気持ちが残っているうちに……と思うのかもしれない。
「明日の警備には伯父が来るわ。あと、あなたのお嫌いなポッターがね」
 自分の放った言葉が遠く聞こえた。私はスネイプの手を振り払うと、床に手をついて立ち上がった。頭がグラグラして気持ちが悪いが、暫くすれば良くなるだろう。スネイプが差し出した仮面を受け取って、顔につける。視界が狭くなった。凝縮された闇のなかでスネイプが佇んでいる。傷ましげな視線へ私は笑って、それで仮面をつけているから笑っても見えないことに気づいて、でも仮面が変わりに笑っているからと、生産性に欠けた思考を辿っていた。

「行くのか」
 ひゅっと喉が鳴った。

 そうだ。私の意思に関わらず、もう行くしかない。きっとスネイプも、それは分かっている。私たちは似たもの同士だ。九年前ジェームズと覗いたコンパートメントで、彼が彼女に惹かれているのを分かってしまった。その時、あなたもそこにいた。互いに蚊帳の外で、あなたはジェームズしか見ていなかったし、私もリリー・エバンズしか見ていなかった。その時から私達は心のどこかで意識し合っていたのに違いない。私はあなたのことを趣味が悪いと思うし、あなたもそう思っていて、別々のものへ関心を向けていて、でも馬鹿馬鹿しいぐらい同じだった。あの人に愛されないなら、殺されたいの。分かるでしょうと口にしたい。こんな風になっちゃ駄目だとも言ってやりたい。でも、私達は他人だ。

 私は軽く頷いて、「もう行くわ」と零した。そうして逢瀬の終わりを告げる代わりに「私の分も我が君へお仕えしてね」と嘯き、くるりと踵をかえす。同じ速度で遠ざかって行く足音に、歩幅殆ど同じってやだなと思った。振り向いたら、やっぱり殆ど同じみたいで、しかも向こうも首だけで振り向いていた。馬鹿みたい。馬鹿みたいね。言葉を交わすべき相手も、本音を打ち明ける相手も、一緒に過ごしたい相手も他にもっといるだろうに、なんでこんなところであなたと会って話してるんだろう。馬鹿みたい。
 本当に、明日死ぬだなんて馬鹿みたいな話だ。

 空に棚引く闇が薄れて日が滲み、夜明けに至る。

 陽光も帰路を辿るジェームズに纏わりつく夜を掻き消すことは出来ないらしかった。
 グールのような顔をしていると茶化したリリーも、夫を魘す悪夢の重さに気付くと口を噤んだ。ジェームズの羽織っているローブを剥がして、パンと叩いた。埃は落ちても染みついた夜は褪せることさえない。玄関先でぼうっと立ちすくむジェームズをリビングまで引っ張っていくと、リリーは彼をソファへ押し込んだ。すぐ隣の台所には朝食の準備が整っていて、湯気が部屋を温めている。
「何か温かいものを、」そうぼやいて、リリーはリーマスの台詞を思い出した。「あと、甘いものを持ってくるわ」
 夫を和ませようとリリーはにっこり笑ったが、瞳の内にある不安は隠しきれない。己を引き留める手を払いのける元気はなかった。手を引かれて、ズルズルと落ちていく。ジェームズの膝の上へ崩れ落ちて、身を寄せ合った。安定剤でも食むように口づけを繰り返す。
「何があったか教えて、といっても無理でしょうね」端から強請る気はなかったが、ジェームズの瞳が淀んだのにリリーは自分の選択の正しさを噛み締めた。「ごめん」自分を抱きしめる夫の腕に身を委ねて、リリーは瞼を閉じた。「いいえ、仕方ないわ」仕方ない。妻としてではなく、仲間としての慰めを口にした。「私達少し急ぎ過ぎたもの」求められるままに応じて、そこに己の意思がまるきりなかったではないが妻になるには早すぎたと思う。掌から零れる砂を繋ぎ止めたい。そういう焦りから、数段飛ばしてないとは言い切れなかった。
 リリーはジェームズの胸に頬を寄せて、その脈動へと耳を澄ませる。
「少し急ぎ過ぎたわ。だから、ゆっくりしましょう。時間は無限にあるのだから……」

 耳を澄ませても、自分たちしか住まう者のいないこの家は静かだ。

 ジェームズが共に暮らしてきた両親は疾うに死んでしまったし、隣で暮らしてきた幼馴染はたった数時間前この手で殺してきた。
 大人びていた幼馴染。いつもジェームズのことを叱ったり、たしなめたりしてくれた。同じグリフィンドール寮に進むものと思って疑いもしなかったのに彼女はスリザリンに進み、幾度ジェームズが理由を尋ねても教えてはくれなかった。そしてジェームズに何も言わないままあちら側へ落ち、今宵ジェームズは己が放った閃光に彼女が貫かれるのを見た。黒いローブに覆われた胸が跳ね、その容貌を隠していた仮面が落ちる。ナマエだと知らなかったからという台詞は何の言い訳にもならない。相手の繰り出す呪文に誘われて、殺傷力の高い呪文を使ってしまったと言う軽率さを慰めることは出来ないし、また慰められることがあってもならないのだ。己の愚かさを一番最悪な形で受け止めることになった不運を認めることは、まだ出来ない。耳を澄まさずともナマエの声が鼓膜を揺らす。ジェームズ。胸を揺らがせる。垣根の向こうから、窓辺から己を見ていた瞳がジェームズを真っ直ぐに見詰めていた。
 薔薇咲く垣根の向こうから彼女が自分を見つめている。慣れた景色。慣れた金の髪。慣れた青の瞳。少し低い声が、自分を呼ぶ。

「リリー、僕の子を産んでくれるかい」
 ジェームズの腕の中で、リリーが僅かに目を見開いた。ジェームズを見上げる緑の瞳には動揺が蠢いている。リリーとジェームズは互いに不死鳥の騎士団へ属している。危険に触れることは多く、自分たちを守ってくれるような大人はもういない。ジェームズのプロポーズを受けたときに、リリーはせめてジェームズの重荷にならないよう、自分の身だけは守ることが出来るようにと決意した。魔法の腕にはそれなりの自信がある。それでもお腹に赤ちゃんを抱えて、もしくは腕に抱いて、自分と子供を守るは手に余るだろう。
 不安そうに首を傾げるリリーへジェームズが続けた。「君の目と、僕の髪を持った可愛い子だ。女の子でも男の子でも良い」
「……その子が大人になる頃には平和がある?」
 本当に聞きたいのはこんなことではなかったが、不安を言葉にすることは出来なくて、そんなことを問うた。
「僕が終わらせる。君も、僕らの子も、僕が守るよ」
 自分達のために――ジェームズには“それ”が必要なのだとリリーが悟る。この人は自分をこの世界に留めるに足る重石を求めている。家族を求めている。失ってきたのだ。今日、家族に近しい人を失ってきた。リリーはそっと瞳を伏せる。「あなたを信じてるわ」私が、あの人からこの人を奪ったのかもしれない。リリーは自分を見つめる青い瞳を思い出した。憎しみに満ちた瞳が年々悲しみに沈んでいく時間を思い出して、ああ、今日この人は彼女を殺してきたのだとリリーは実感した。この人が選んだのは私だった。彼女ではなく、私だった。そしてリリーもそうと知っていて、ジェームズの求めに応じたのだ。彼女がジェームズを好いているのを知っていたから、応じた。この人を失いたくないと思ったから、今応じねば彼女が選ばれるかもしれないなどと思ったから、だから焦った。「あいしているわ」
 リリーはジェームズに抱き着いて、震える声で愛を紡ぐ。「ジェームズ、あなたを愛してるわ」
「僕も愛してるよ」
 愛している。あいしてる。互いの気持ちを確かめ合うように、自分たちの絆を手繰るように囁き、身を寄せ合って、温かな春を待つ。誰かに縋らなければ越せない冷たい朝が過ぎても、あの垣根はつぼみをつけることはない。ポッター家が襲撃を受けた夜、二つ並んでいた家は燃えて、帰る場所も、手を振って呼ぶジェームズも、それに応えるナマエも、もう過去に置き去りにされている。思い出は野ざらしで、今のジェームズにはそれを顧みるゆとりがない。なにもない。
 ジェームズには愛する妻と信頼がおける仲間たちがいて、じきに可愛い子どもも産まれるだろう。彼が生きていく理由はそれで十分だったし、彼女と一緒に死なないためには彼女を忘れるしかなかった。
 ナマエ。潔癖で正義感が強く、負けん気が強い幼馴染み。不器用で、自分の弱みを他人に晒すことが出来ない彼女のために、ジェームズは一体いくつのジョークを覚えただろう。真っ直ぐに自分のことを慕ってくれる彼女がスリザリンに組み分けられたとき、そして彼女がスリザリンに行っても自分たちの関係が変わるわけではないと約束したとき、ジェームズはその全てに納得がいかなかった。きみは僕のことが好きなのに……そんな幼い日の傲慢をいつまでも引きずって、きみの気持ちを本当には理解しようとしなかった。ただただ年を重ねるごとに薔薇のように華やぐきみの好意を独り占めすることに慣れ、その価値も重さも忘れて、きみを自由にすることも、向き合うこともないまま全てを失ってしまった。
 どこまでも真っ直ぐに僕を好いてくれた幼馴染み。幼い日の初恋。ぼくの一番大切な女友達。その全てにさよなら、僕が初めて殺したひと。

 救いを求めて耳を澄ます。
 何もない世界でもあなたの声だけは聞こえる。指先さえ見えない世界で、あの景色だけが見える。

 薔薇咲く垣根の向こうからあなたが私を呼んでいた。
 慣れた景色。慣れた黒髪。慣れた薄茶の瞳。私の幼馴染が私を呼ぶので、私は庭に面しているこの部屋がとても好きだった。幾度か弟の部屋と変えてと言った事もあるけれど、勿論本気で言ったことは一度たりともない。あなたが出かけるのや、誰かと話しているのがよく見える窓辺は私のお気に入り。ホグワーツへ戻るにもこの窓枠を持っていけたら、きっと私はもう少し素直になれるのにと酷く口惜しかった。
 春が散って、夏が照って、秋が積もって、冬が溶けても、私はここにいる。

 千年先の未来でも、百年後の過去になっても、ジェームズ、あなたの姿がある限り。

 ジェームズと何事か言い争っていたおばさんが、ジェームズを庭へ残したままバタンと扉を閉めた。あまりの勢いに蝶番が吹っ飛ぶ。
 私とジェームズがくすくすやっていると、蝶番が浮いて元の場所へ帰って行った。ぎいっと扉が開く。おばさんが顔を覗かせて、口をパクパク動かす。それまで笑っていたジェームズが神妙な面持ちになった。扉が閉まる。ジェームズがべーっと舌を突きだした。懲りないヤツ。
 窓から身を乗り出した私は、ねーえ!とジェームズを呼ぶ。私に気づいたジェームズが「あれっどうしたんだいナマエ、今日はとっても綺麗だよ」と言うので、私の顔が緩む。圧倒的優位だ。ねーえ、また悪戯したの? ナマエ、部屋に入れてくれる? 返事になってないどころか逆に質問されてるけど、元から答えは分かっているので、私達の会話はスルスルと続いていく。駄目。ケチ。ケチって何。毛糸の女王様みたいに小さくて可愛いの略だよ。それって全然フォローになってない。じゃあ言う通りに言うから、何か頂戴。母さんったら僕を餓死させる気なんだ。嫌よ。ばれたら私まで怒られちゃうわ。お願い! 何でもするから。あーあ、そうやって自分を安売りして、馬鹿だなあジェームズは。そう思うけど、私は性格が悪いから、そんなこと素直に言ってやらない。本当に何でも? 馬鹿なジェームズが大きく頷く。本当に? 本当に本当だよ。私は緩む頬を手で押さえて、殆ど窓から落ちそうなぐらい身を乗り出して、ジェームズへ叫ぶ。

「それじゃ、大きくなったら私と結婚してね!」

 ジェームズがしーっと人差し指を口元へあてた。
「わかったわかった、君がくれるケーキとおんなじ大きさのダイヤをくっつけた結婚指輪をあげるよ!」押し殺した声で叫ぶ。
 私は笑って、ジェームズに手招きした。来なさいよ。ママに何か貰って、爆発スナップでもしましょう。途端に満面の笑みを浮かべるジェームズへ、私は母さんのロマンス小説を読んで身に着けた知識を披露する。愛してると耳元に囁き、私に跪いて求婚するのよ。私、ナマエ・ポッターになるわ。聞いているのジェームズ。はいはい。何か食べてからね。もう、あなたってほんと駄目ね!

 駄目ね、ジェームズ。

 あなたって本当に駄目な人。死の呪いを撃った私に、あなたがどうして駆け寄るのよ。馬鹿なジェームズ。あなたよりもずっと馬鹿な私。
 崩れ落ちる体。光を失っていく瞳。ナマエ! ジェームズが私の名を呼んで駆けよる。私へ触れるのに垣根をくぐる必要も、窓を乗り越える必要もない。なのに心はあの頃よりずっと離れていた。知らないうちにたくましくなった腕が私の体を支える。今からでも遅くはない。君だけでもこちらに戻ってくるんだ。何も恐れることはない。僕ら、友達だ。一緒にヴォルデモートと戦おう。伯父さんが私に治癒魔法を掛けようとしている。でも私知ってる。それ、スペル間違ってる。伯父さん、呪文学苦手だったものね。大声で笑いたいのに、口端を歪めることしか出来なかった。泣かないでよジェームズ、私が可哀想みたいじゃない。私、呪文間違えてる伯父さんで笑えるのよ。可哀想じゃないでしょう。あなたの腕に抱かれているわ。可哀想じゃないのよ、ジェームズ。私が選んだのよ。あなたはここにくる死喰い人が誰か知らなかったけど、私はあなたがいることを知っていたわ。だから私、可哀想じゃない。可哀想なのは、私の、
『どうかナマエ、僕と結婚して下さいと言ってね。愛してると耳元に囁き、私に跪いて求婚するのよ』
 知らないうちに冷たくなった指でジェームズの頬に触れる。もうその温度さえ分からない。私の指先が死んでいるからだ。じわりじわりと死が皮膚を蝕んでいく。ジェームズ。ジェームズ。「愛してる」凍った皮膚の上を涙が滑っても、もう何も感じない。ただ可哀想だと思った。あなたを写す窓辺が、あなたを覗く幼い私が、私の恋が可哀想。あなたに愛されなかった私が可哀想。大きくなったら私と結婚してね。幼い思い出が胸を絞める。大きな結婚指輪も跪いての求婚も私のものではなかった。ポッターの家名も、くしゃくしゃの黒髪も、薄茶色の瞳も、何一つ。それでも私に勇気があれば、あなたと一緒に生きることが出来たでしょうね。そうね、ジェームズ。変に意地なんて張らないで、あなたと同じグリフィンドールを選べば良かった。そうしたら私はあなたの恋の隣で生きることが出来たのにね。
 でも、ごめんねジェームズ。それでも私、あなたの腕の中で死ねたことだけは幸せだったのよ。意地が悪いわね。さいごにとびきりあなたを傷つけて、それで幸せになってしまうなんて。ジェームズ。わたしの幼馴染み。わたしのあいするひと。わたしの全て。ありがとう、あなたの幸せを壊す前に私を殺してくれて。

 薔薇咲く垣根の向こうには、もう何も見えない。
 それも当然のことだ。あの家も庭もずっと前に燃えてしまったし、私だって う、あな の名前さ …
 

失恋