入学したばかりの頃のことを思い出す。教室移動に手間取って、いつでも廊下をバタバタと走っていた。

 先輩達に聞いてもまず教室の場所が分からないのだから如何しようもない。やっと教室の位置に検討がつけば、今度は階段と絵画の洗礼を受ける。気まぐれな階段は階数という境界を歪ませ、ひとを惑わす絵画達は新入生をからかうのをライフワークにしていた。教科書の重みを肩に食い込ませながら走る私達は、トイレへ行く時間さえ十分に取れないのが常だった。マクゴナガル教授の小難しい話を聞きながら考えるのは自分の膀胱の容量について……というのは私達にとってそう珍しいことではなかった。

 食事を控えれば良いのよとか、紅茶は駄目だと話し合ったところで、生理現象はどうしようもない。
 時計の長針とトイレと次の授業が行われる教室までの道のりとが、机に向かう私の頭でチカチカと瞬く。そんな状態でまともに魔法が使えるはずもなく、ティーカップに変わるはずのハリネズミは小さな便器になってしまった。誰も私のハリネズミの行方など見ていないのに、ティーカップが一つしか存在しない教室のなかで、私は消え入りそうなほどに恥ずかしかった。隣の席の友達とは、入学当初から、教室移動の時間が短すぎると愚痴りあっていた。だからなのか、彼は私のハリネズミを馬鹿にしなかった。私が緩く長いため息を引きずりながらトイレから出てくると、外で待っていてくれた彼が「各階にトイレがあるといっても、階段のせいで無意味だよね」と慰めてくれた。
 馬鹿みたいな失敗を引きずりたくても、私達の悩みは尽きない。時計の長針と次の授業が行われる教室までの道のりとに追いやられて、疎ましい階段を数段飛ばしで降りていった。そういう慌ただしさは三年の中ごろまで消えなかったと思う。

 それが――セブルス・陰険・スネイプ教授に掴まった時か、マクゴナガル教授に減点されてからか、いつの間にか廊下を走らなくなった。何となくスネイプのせいである気がする。「信じられる? お得意のネチネチを聞かされたあとで、彼の机に貼りついたネチョネチョを掃除させられたんだから」と荒々しく愚痴る自分は、廊下を歩いていた。壁も蹴らなかった。スネイプは時々正しい指導を行う。

 いつからなのか、走ることも、時計を見ることも少なくなって、ふと気づいた時には赤ちゃんみたく幼い後輩たちに追い越されていた。

「それで地図なの?」マフラーと手袋・耳当て、冬場しのぎ三種の神器でも顔ばかりは如何しようもない。もこもこの帽子のおかげで見えないが、鼻と髪の色を揃えたビルがナマエの隣で寒さに顔を顰めていた。「地図を作るより、携帯式のトイレでも作ったほうが良い」
 割と正論染みた――しかし女子相手に提案するには不適切な意見を口にして、自分で抱いた腕を擦った。
 湖面をさざめかす鋭い風に、ナマエの腕のなかの羊皮紙がビタビタとなびきたそうに震える。きゅっと口を結んで、ナマエは羊皮紙を丸めた。こう風が吹いていては、何か下に敷かなけりゃ走り書きひとつ出来ないじゃない。ふんと鳴らした鼻も、やはり赤かった。
「なによ。大の男が、それもクィディッチ選手の癖に。雪だって振ってないじゃない」
 ビルはずっと鼻を啜ると、両手で顔の下半分を覆った。
「雪よりも風のほうが寒い。それに、動かないでじっとしてるのも寒い。中に入ろう。朝食だってまだじゃないか」
 明瞭な反論と、寒空の下で魅力的な提案だ。くぐもった声が不満を漏らすのに、ナマエは膨れ面で応えた。「じゃ、ビルだけでも帰ったら。私にはホグワーツの地図を作るという重大事業が残されてますので」軽い肩掛け鞄に羊皮紙を仕舞うと、湖を背後に歩き出す。
「どこに行くんだい」
「とりあえず、風のないとこ。帰って良いわよ」
 ザクザク、ザクザク。霜の残る芝生を踏む音が二人分重なって聞こえる。
「僕がいなきゃ、君、迷うじゃないか」
「馬鹿にしないで。外で迷うほど馬鹿じゃないわ。校内だって、もう何年ホグワーツにいると思ってるの」
「六年と少し」
 ザクザクザクザク、ザク、ザク。ひとりぼっちになった足音に、歩みを止めて振り向く。自分より先に立ち止まっていたビルが、ナマエの視界にゆっくりと近づいてきた。何となく、子供扱いされてるみたいで腹が立つ。

 いの一番に異性の友人を作った自分を呪うべきなのかもしれない。
 性差という気まずさを乗り越えて、六年もずっと仲良くしてくれていたことに、感謝するべきなのかもしれない。
 今日だってこんなに寒いなか一緒に早起きしてくれたし、ナマエが最後のクリスマスをホグワーツで過ごすというから、一緒に残ってくれた。良い友人だった。しかし自分と話すのにデリカシーの欠片も要らぬと力を抜くのは許しがたい。いつからか一番の友達が異性というのは可笑しいのでないかと気づいた自分と、今でもまだトイレの外で待っていてくれるビル。ポータブルトイレの発想を臆することなく口にする事と言い、きっとビルは私のことをパーシー達と同類項で纏めているに違いない。チャーリーのことは嫌いじゃないし、自分より頭良いし、茶目っ気があって可愛い。パーシだって生真面目だけど、礼儀正しい良い子だ。昨年の夏にウィーズリー家へ泊まったのも楽しかった。自分と、あと数人の男子で泊まりに行ったら、モリーさんがとても困惑していた。彼女だけ泊めるってのも恥ずかしいんだろうとアーサーさんが口走ったおかげで、私とビルは朝から晩まで、その日一日中気まずかった。他の友達も、気まずそうだった。

 正直言って、私は最初からビルが男の子だと分かっていたし、単に一緒にいて面白かったのと、何でかこのやたら苦労性なようで他人に物事を投げ渡すのが上手い奴が気に入って、というか尻拭いをしてやらなければと薄ら思ってしまって、気が付けば六年過ぎていた。
 同室の子達とも仲は良いけど、ビルと下らない話をするのが一番楽しい。ビルも私も顔が広いので、他の子達を交えて数人で仲良くしてきたつもりだった。しかし傍目には二人きりで親密にしているように見えるらしい。男女二人が親密というと、如何にも思わせぶりなようで、ビルの彼女とは口も聞いたことがないし、私は私で、彼氏が出来ると「やっぱり僕じゃダメなんだろ」と言われてふられてしまう。
 私が彼氏と別れた時とか、ビルが彼女にふられた時とか、互いに同性だったら良かったのにねと話し合う。深いため息を吐いたビルに「同性愛者って、こういう気持ちなんだろうな」と言われた時は、思いきり肩を殴ってやった。

「地図、完成しそうなの?」しそうにないことを、いつも傍にいるビルはちゃんと知っている。「あと三ヵ月ぐらいで、卒業じゃないか」
 ナマエはくっと顔を上げて、ホグワーツ城を仰いだ。ととと……と後退して、遠ざかろうとしても、城の全貌は見えない。グリフィンドール塔も、ここからは見えなかった。ホグワーツからホグズミード駅までの道は、禁じられた森の端を抜けていく。ただでさえ馬車の窓は小さく、木立の隙間から覗くのも頑強な城壁だけだった。それなのに、ナマエがホグワーツ城の姿形を思い出せないことはなかった。
 その輪郭は月明りに照らし出され、不安と薄闇でおぼろな視界にもこれからの七年間がくっきり見えるようだった。
「……地図ないと、迷うじゃない」ナマエはふいと視線を下ろして、自分のつま先を見つめる。
「地図が完成するのと、ホグワーツを卒業するのと、どっちが先かな」
 ビルはくしゅんと、男らしくもない可愛いくしゃみをした。筋肉隆々と言って良いだろう肉体を持ち、クィディッチで大活躍のビルだが、寒さが大の苦手だ。「長男だったんで、暖炉の燃え盛る部屋で大事大事に育てられたんだろう」とは彼の言で、マフラーには暖炉ほどの保温効果が見込めないにしろ、今もモリーさんの愛情に包まれている。そんなら北極に住んだって良いじゃないかとナマエは思うのだが、卒業後の進路はエジプトに決めた。同級生たちの中で、明確な就職先を決めたのはビルが一番最初だった。

 夏季休暇中に話をつけてきたけど、正式にエジプトで呪い破りすることになったらしい。朝食の席でそう伝えられたナマエは、なんというか「そんな話聞いてない」と思った。でも、そう責め詰ったら、まるで“恋人同士”のようだと口を噤んだ。
 男同士だったら「もっと早く言えよ、馬鹿」と、皆の前で怒れた。恋人同士だったら「なんで、事前に相談なりしてくれないの」と非難することが出来た。異性同士、他人から恋愛感情があるとは思われたくないので、ナマエは「ふーん」とぼやいた。
 ふーん、エジプトか。ビル、寒いの嫌いだもんね。ナマエは逆だから、エジプトなんて絶対お断りだろうな。ナマエは半熟、ビルは両面焼き。二皿の目玉焼きを挟んで、そんなやりとりをしてからはもう二か月以上が経っていた。
 怒るタイミングは、すっかり失っていた。代わりに、わけのわからない理由で振り回したり、それで怒ることが増えた。ビルはナマエを鬱陶しがることなく、付き合ってくれる。今日だって久々に昼まで寝ると言っていたのを付き合わせて、それでも怒らない。

 悪いと思ってるならごめんと一言口にすればいい。自分も、何で言ってくれなかったんだと責めれば良い。白々と広がっていく陽光に、夜の間に積もった闇が地面へ重く沈んでいく。早朝の空気は雪のように薄青くて、霧など掛かってないのに、世界に二人きりみたいだった。
「ビルが、」遅れて口にした非難は、わなわなと小刻みに震えていた。「ビルがエジプト行ったら、地図作らないと、迷うもの」
 地図を作る理由を聞かれていたことを思えば、それは脈絡のない台詞だった。しかしビルが面食らう様子はなく、彼はじっとナマエのつま先を見つめて、彼女の言葉を待っていた。六年と少し、もうすぐで七年になる。赤ん坊が言葉を話して、好き嫌いさえ口に出しはじめる歳月だ。長い時間、二人は一緒にいた。友達だった。これからも、そうでいたいと望んでいた。これから、二人はもう同じ場所で暮らさない。毎日顔を合わせない。目玉焼きの皿どころか、海さえ挟んだやり取りを続けていくのだ。何年も、何十年も、もう二度と一緒には暮らさない。異性同士だから、何もかもを忘れてしまうまで共にいる選択肢もあった。選べないねと、何度も二人確認し合って、いつか離れ離れになってしまうのは予感していた。夢みたいに遠かった現実が、気付いたら目の前にある。そうしたら不安で不安で堪らなかった。
 なんだかんだ一杯ビルに頼ってた。ビルのことが、大好きだった。毎日顔を合わせて、下らない話で盛り上がるのが楽しかった。学校が大好きだった。スネイプはちょっと嫌いだけど、あの陰険薬学教授でさえナマエの学生生活の一部だった。それが終わってしまう。あとたったの三ヵ月、冬と春が終わって、夏の気配が息づく頃になったら、ナマエは大人になる。
 友達も、小うるさい教授たちも、宿題もいない。大人になるって、ひとりぼっちになるみたいだと思った。
「卒業したら、ビルはエジプト行っちゃうし、エジプト遠いし、わたし迷って、ビルの彼女、きっと会いに行ったら嫌がる」
 そこまで一息にぶちまけると、ナマエはぐすっと鼻を啜った。

 ナマエが嗚咽交じりの声で「ごべん」とぼやくと、ぷっと、ビルのなかの小さな風船が破裂した。嫌な予感――それは殆ど第六感だった――に顔をあげると、ビルは俯きがちに笑っていた。他の女子みたいに慰めて貰えるとは思ってなかったけど、まさか笑われるとも思わなかった。こいつは一体、私を何だと思っているんだ。私は女子だぞ。本当なら、トイレの外で待ってちゃいけないし、ポータブルトイレの発想だって、口にしちゃ駄目なのに、ビルが私を叱りつける声の響きは、彼の弟の双子たちを叱る時のそれに似ている。
「僕に会いに来た友達を嫌がるようなひととは、付き合わないよ」
 ニヤニヤ笑うビルが、ナマエの頭をポンポン叩く。「馬鹿だな、ナマエは。君だって、自分の交遊関係を制限するような男とは付き合わないって言ってたじゃないか。僕だってそうだよ」それはそうだけど、何故か苛立たしい。
「エジプト、行かないから」ナマエはずっと鼻をすすって、目じりを擦った。「暑いとこ嫌いだし、別に迷わないし」
「たった今、迷った時に僕がいないと如何しようって言ったじゃないか」
「だから、そういう、貴方の、弟か妹でも宥めるような口調が嫌いなの。レポートは私にやらせる癖に」
「薬草学だけじゃないか。他はやってるし、魔法薬学は寧ろ君が写してた」
 ザクザクサクサクサク。光を浴びて柔らになってきた芝生を横切るナマエの隣にビルが並ぶ。
「上級魔法薬なんて取る気なかったの。私は卒業さえ出来れば良かったのに、ビルが泣きつくから一緒にとってやったんでしょ」
「結局のところ卒業出来るんだから良かったじゃないか。僕は別に、ナマエと一緒なら留年しても良かったけど」
「嫌よ。道連れにしないで。私の家は留年したひとなんて一人もいないんだからね」
「僕の家は、確か大叔父が一年留年してたような……病弱なひとでね」
 ケラケラ笑うビルに憤慨しながら、ナマエは早足気味に歩く。結局入学当初から卒業するまで、ビルは自分の歩幅に合わせてくれなかったわけだ。荷物も持ってくれなかったし、重い物を持って潰れている私で一頻り笑ってからでないと手伝ってくれなかった。
 果たしてビルが自分を女性扱いしてくれなかったのは何故なのだろう。苛立たしい。

 それでも入学してから六年と少し――その内七年になるだろう――人生を共に歩むに足る友と過ごしたのは、得難い幸福だったと思う。
 

貴方の隣で迷わなかった七年

 
終わっちゃうねと呟いた。やっぱり留年したかったのと、返ってきた。